善爺の歴史探訪

戦後世代が戦争について考えます


善爺のプロフィール





母メラの父(私の祖父)は、山口県徳山市出身の大正生まれです

とても穏やかな優しい性格の持ち主でした





山口生まれなのに四国に渡ったようで、善爺は愛媛で警察官をしていました

四国が九州に突き出た長細い半島(佐田岬半島)で、駐在さんとして勤務することになります

愛媛県伊方町の三机湾は、ハワイ・真珠湾に地形が似ていることから、軍の極秘演習が行なわれていました

恐らく善爺は地元の警察官として、軍に協力して、警備・警護などに関わっていたのだと思います





(伊方町のHPより、引用させていただきました)


善爺は民間人ではなく、警察官でした。そのために軍からは召集はありませんでした

軍の人事ではなく、警察の人事で、特殊潜航艇の基地を警備するために、戦後まで勤務しています

警察の管轄をまたいでの転勤は、まさに特高警察官だったことを示唆しています

特高警察=秘密警察のイメージが強いですが、善爺は軍設備を警護するための軍属警察官でした





善爺は、国東半島・大分県日出町(ひじまち)に短期間ながら勤務していたことがあります

瀬戸内海を転々としながら、この土地で祖母と結婚しています





善爺は長らく山口県の基地に勤務していました

徳山や岩国に住んでいたこともあり、特殊潜航艇の技術は、戦況の悪化で人間魚雷へ変貌して行きます

自らが魚雷となり、散って行く若者の姿を見守ることしかできない立場は、苦痛だったと考えられます





岩国警察署勤務中に8/6を迎え、広島との連絡が途絶えた際に、善爺は連絡のために伝令に出ました





山口県・岩国と広島県・大竹の県境で、善爺は広島方面からの難民と出会いました

現場の大混乱を収拾している間に終戦を迎えています

善爺本人は「県境で迷って、広島には行けなかった」とエピソードを残しています




(米海軍の戦闘機F6F)

しかし、県境を流れる小瀬川の河口は工業地帯で、米軍戦闘機の来襲もあったでしょう・・・

私は、米軍艦載機の機銃掃射が激しく、対岸に渡れなかったのが真相だと思っています





善爺の転勤先は、真珠湾開戦前の宇和海から終戦時まで、「回天」の司令部と一致しています

戦後は進駐軍によって「公職追放」の対象となり、特に罪を侵していないことから、解放されています

長年、機密に関係していたので、米軍の調査もあったようです

戦後の復員は、横浜でした

そのため戦後世代は、神奈川・横浜で育っています


生前、戦争について多くを語らなかった理由が、今回のレポによって、孫の私が理解できたような気がします





人間魚雷 回天







善爺は時の世代を超えて、徳山市大津島(現・周南市)にやって来ました

善爺は今も健在であれば、100才を越えているはずです




当時の「回天搭乗員」が訓練していた「回天発射訓練基地跡」が、今も大津島に現存しています

人間魚雷「回天」の発射訓練基地跡が、今も現存するのは大津島だけなので、戦争遺産として大変貴重です




恐らく勤務経験があるだろう大津島に、複雑な過去を振り返る善爺

島自体が戦争中の機密だったため、多くの遺産が残る大津島は、後世に語り掛けるものがあります




大津島には戦争を知らない孫達の世代も一緒に来ました




まるでピクニック気分の孫達ですが、善爺の表情は重いです




孫達に太平洋戦争の体験談を語る善爺






大津島を貫いて、回天発射訓練基地跡までトンネルが掘られています

現在は撤去されていますが、レールの痕跡がトンネル内にありました

搭乗員はここで訓練を受け、外洋へ還らぬ人となりました




トンネル途中の分岐から、回天発射訓練基地跡が近付いてきました

隊員達はこのトンネルをトロッコを押しながら、果たしてどんな気持ちで往来したのか?

若い青年兵達の気持ちを、善爺は知っています




トンネル内の厳粛な雰囲気に圧倒され、坑道内での撮影は控えました

ピクニック気分だったメラニー孫達も、善爺の話に真剣に耳を傾けています




長いトンネルを抜けると、発射訓練基地です




まさにここで回天発射訓練が行なわれた場所に立つ碑文

多くの若者がここで決死の訓練をして、時には訓練中に命を落としました




回天の操縦は非常に難しく、この発射場での日々の訓練自体が、隊員達の実戦だったのではないでしょうか?

ここで回天は注水され、まさかその魚雷に人間が乗るという発想は、すでに「大和魂」の限界だと思います





回天発射訓練基地跡からトンネルを戻り、島の山手にある「回天記念館」へ向かいます








記念館入口は、「回天」で戦死された乗組員の慰霊碑が回廊のように並び、見る者の心を打ちます

善爺と交流のあった少年兵など、石碑の名前の中にあるのかもしれません




帰りの連絡船の時間が迫っていたため、記念館内部は急ぎ足でしたが、美しく整備された記念館でした

館内にはまるで18才とは思えない達筆・名文の遺書なども紹介されており、心を打ちました

以前、何かのエッセイで、テロは「憎悪」、特攻は「愛情」という簡潔な表現を用いた人がいました

本当に祖国のことを真剣に考えて、日本の未来のために散った若者の息吹が、崇高であること・・・

祖国というよりも「家族が暮らすふるさと」を守る優しさを、多くの遺書から感じました




善爺のその後




善爺は戦争中のことは語らないままに、横浜市で亡くなっています

もともと警察や軍歴の長い人だったため、都会での会社勤めには苦労があったと聞きます

今は母メラの故郷・・・まさに海軍の演習のあった、宇和海を臨む愛媛県八幡浜市で眠っています

祖母はまだまだ神奈川で健在です




善爺は五児をもうけ、ミフィメラ判別不能のよく分からない伯父3人と、父似の長女・母似の次女の5人がいます




善爺似の長女の旦那です




さすがにその息子は、歴代遺伝子にはかなわないです

でも浅黒いのは気に入っています


善爺の歴史探訪